おぼんろ新作公演を2020年に予定してる。実は春頃から企画を立てているのだけれど、進んでいたり、進んでいなかったり。
今日から、その公演に関する様々なことをここに綴ろうと思う。別に毎日ではない。無理はしない程度に、適当に。

作品創作における作者のドキュメンタリーというものは、目にしたくない人もいると思うから、アメブロやツイッターで全ての人に晒すのははばかられるため、自分で作ったMonogatalinaの中に書く。

サービス用の文章を求めないでほしく、ただただ、自分と会話するようにここに記していこうと思う。住人以外に文章を公開することもあるし、住人だけに限定することもある。ここでは生身の状態で文章を綴るから、こっちも無防備だ。コメントをもらったりは嬉しいけれど、あまり攻撃はしないでほしい。ありのままの自分を取り戻したい。

誰かのための文章や作品を創ることに慣れすぎた。そもそも自分はそうではなかったはずだ、と最近ではよく思う。生きていくために何かを創っていた。子供の頃からだ。制御できない感情なんかを、自分は絵や詩だとか音楽だとかで表現した。そうしないと生きていけなかったからだ。

今でも強い感情は抱く。抱いても、それを作品に反映できないことも増えてきた。「みんなのための物語」を創ることが仕事になってきたからだ。それ自体は良いことだ。だけれど、「人が喜ぶもの」を追い求めるあまり、「人には喜ばしくないもの」を胸に抱いた時に、それを押し隠そう押し隠そう、とするようになってしまったように思う。

・・・・・・・・・・・・・
末原拓馬は残念なことに筆が遅い。いつも他現場と並行しているせいもあって、なかなか集中する時間を取れないし、そもそも机に座っているのが苦手だし、同じ場所にい続けることも苦手だ。さらには過度の完璧主義者なもので、とことんまで時間をかけてしまう。
だもんで、早いところ公演の準備をしたい劇団の仲間たちからしてみれば、「再演にしないか?」と言うところなのだけれど、頼み込んで新作を書かせてもらうことにした。公演をすることよりも、物語を紡ぐことに重きを置きたい、と、今は思った。


そんなこんなで、新作の執筆に取り組んでいる。


ちなみに、うちの劇団では、さひがしジュンペイは再演推奨派。「良い作品は何度もやっていくべきだ。拓馬の作品はやるべきだ」と言ってくれるから、それはそれで嬉しい。藤井としもりは、新作推奨派。「せっかく描き続ける才能があるんだから、描き続けたまえよ」と言ってくれたものだから、うっとりするほど嬉しかった。なんだか、兄たちは自分に甘い。高橋倫平に関しては「お前がやりたいことが正しいことだから、やりたいことをやってくれ。助けられるだけ助ける」とだけ言う。わかばやしめぐみは、何をやっても笑って相談に乗ってくれる。なんとなく、めぐみさんといるときは姉妹でいるような気持ちになる。劇団員と喧嘩をすることも多いし、正直みんな変人ばかりでイーッとなること多いけど、世界の誰に嫌われても、この人たちは変わらないでいてくれる気がしてる。それが、今の自分にはとても支えになってる。



描きたい題材は無限にあるし、描きたい衝動もたくさんある。だけれどここにきて、「なぜ描くのか」と言うようなしちめんどくさい問いに向き合わないではいられない自分がいる。向き合ったところで答えなど出るのかどうかはわからないが、向き合ってみようと思う。
どうせ一度きりの人生だし、好きなだけこだわってみようと思う。

この数年の間に、本当に様々な体験をしてきた。その度に考え方が少しずつ変化したり、変化した結果、変化しないものがなんであるのかがハッキリわかったり、色々だ。今日も今日とて現場に入りながら、どんどん自分が変わっていく。今の末原拓馬は、どんな人なんだ。何を愛していて、何を求めていて、何に怯えているのだ。


今は、プロットを描いているところ。プロットっていうのは、わかりやすくいうと「あらすじ」のようなものだと思ってもらえればいい。実はだいたいできていたりはする。でも、簡単に形にしちゃいけないくらいには、しっかり考えている。


なんにせよ、とりあえず第一稿を年内には描き上げるつもりだ。


そういえば先ほど、新作を描いているということについてツイッターに書いたら、すぐにたくさんの人から反応をもらえた。嬉しかった。すごく、すごく嬉しかった。

これまで、おぼんろは何万人の参加者と出会ってきたのだろう。全ての人と再会したいと心から思う。そして、どんな現場に顔を出すようになろうとも、やっぱり自分は、「おぼんろの末原拓馬」なのだと心から思う。